マルチピッチクライミングの支点構築とビレイ運用を安全に回す手順ガイド

mountaineer hiking rocky trail
クライミングの知識あれこれ

マルチピッチクライミングは、岩壁を複数の区間に分けて登る山岳技術の集約です。

シングルピッチの経験があっても、支点構築や懸垂下降、撤退判断など新しい要素が加わるため、準備の質がそのまま安全に直結します。本稿では行動の流れを地図のように整理し、装備の選定から手順、合図、撤退までを段階的に解説します。まずは次のチェックで自分の現在地を確認しましょう。

  • セルフ確保と支点構築の手順を口頭で説明できる
  • 懸垂下降の結び替えとバックアップを実演できる
  • ガイドモード対応のビレイ器を使ってセカンド確保ができる
  • 合図と掛け声をパートナーと共通化している

上の項目が不安なら、本文の各章で手順を確認してから外岩に臨みます。特に撤退の準備は出発前に完了しているべきという意識が大切です。

マルチピッチクライミングの基礎と流れ

この章では、マルチピッチクライミングの全体像を素早くつかむために、定義と魅力、行動のタイムライン、ピッチ長やグレードの読み方、スタイルの幅、必要技術の相関関係を俯瞰します。地図なしで森に入らないのと同じで、全体の道筋を最初に押さえることで、後の装備選びや現場判断が一気にクリアになります。特に時間管理と役割分担は、渋滞や天候変化に直面したときの安全余裕を大きく左右するため、基礎の段階で「流れ」を身体化していきましょう。

マルチピッチの定義と魅力

マルチピッチとは、1本のロープで届かない長さの岩壁を、途中のビレイ点を中継しながら複数回のリードとフォローでつないでいく登攀形態です。魅力は、岩稜線に抜けるスケール感、コンビで課題を解くような共同作業性、そしてルートファインディングの奥深さにあります。が、同時にロープワークと判断の質が問われ、準備不足が時間超過やリスク増大に直結します。経験値の異なるペアでも、事前に役割と手順を共有しておけば、安心して景色と動きの両方を楽しめます。

一日の行動タイムライン

典型的な流れは、アプローチ→1P目のリード開始→各ピッチでのフォロー回収→支点解除とロープの整列→次ピッチへ、を繰り返し、終了点から歩きまたは懸垂で下降という順です。日の短い季節ほど出発時刻とターンアラウンドタイム(引き返し時刻)を明示し、各ピッチの所要時間にバッファを上乗せします。経験則として、ピッチあたりの所要はリード30〜45分+フォロー20〜30分+切り替え10〜15分が目安です。渋滞や不慣れを見込めば、さらに余裕を見ます。休憩はテラスで5分以内、小腹満たしはフォロー回収中など動線に組み込むと効率的です。

ピッチ長とグレードの読み取り方

トポのピッチ長はロープの流れや中間支点の密度に影響します。35m表示でもロープドラッグが強いジグザグラインではカム延長やランナウトへの配慮が必要です。グレードは技術だけでなく継続時間と露出、プロテクションの質も含めて難度が変わります。スポート主体のルートとナチュプロ主体のルートでは、求められる判断と装備が大きく異なるため、事前にスタイルを把握しておきましょう。グレードが下がっても風や日陰、寒さで体感難度が跳ね上がることも珍しくありません。

スタイルと領域の位置づけ

フリーのマルチピッチは、支点や終了点が整備されたスポート寄りから、岩質や割れ目を活かしたトラッド寄りまで広いスペクトラムがあります。さらにアルパイン要素が強い壁では、落石や雪渓、アプローチの地形判断も求められます。自分の経験値と季節・標高・方位を照合し、背伸びをしすぎない選択が安全最優先の鍵です。晴れベースの天気でも午後の対流雲やカミナリの兆候を見逃さず、撤退の計画を必ずセットで考えます。

必要な技術と判断の全体像

必要スキルは、セルフ確保、支点構築、ビレイ切替、ロープ整列、懸垂下降、トラブルシュート(スタック・ロワーダウン・リード交代)に大別できます。各スキルは相互に連鎖するため、単発のコツではなく「流れ」で覚えるのが効率的です。紙のメモよりも、簡易カードを防水袋に入れてハーネスに吊るし、現場で即確認できる仕組みが実用的です。

準備と装備の選び方

装備は多ければ安心という発想は、マルチでは逆効果になりがちです。重い荷は行動を鈍らせ、切替の度に余計な出し入れが発生します。この章では必要十分を見極める基準を軸に、ロープとビレイ器の組み合わせ、プロテクションとアンカー素材の要点、ウェアと携行品の最適化を解説。安全係数を確保しつつ、持ち替えや迷いを削ることで、結果として安全余裕とスピードの両立を狙います。

ロープとビレイ器の基礎選択

ロープは60mシングルが汎用的ですが、懸垂が長い壁やトラッド主体ではダブルまたはツインの選択肢もあります。直径は操作性と軽量性のバランスで選び、ビレイ器はガイドモード対応(リバーシブル型)を用意するとセカンド確保の効率が上がります。ロープ端には常に止め結びを作り、袋詰めやバタフライコイルで扱いやすく準備します。細いロープは冬の手袋装着時に制動力が落ちるため、器具との相性も含めて実地で試しておくと安心です。

プロテクションとアンカー素材

スポート寄りではクイックドローを必要数+α、トラッド寄りではカムとナッツをサイズを重ねてセット。アンカー用には120cmスリングとメインのコーデレット(6〜7mm/5〜6m目安)を一つ、予備に60cmスリング数本、ロッキングカラビナは3〜4枚以上が安心です。セルフは120cmスリングやPASで簡潔に取り、冗長になりすぎない構成を心がけます。ハンマーやナイフなど「めったに使わないが決定打になる道具」は小型軽量で揃えます。

ウェアと携行品の最適化

行動着は速乾長袖+軽量防風、終了点や日陰用に保温着を圧縮。ヘルメットとグローブ、ヘッドランプは必携。水は季節により1.5〜3L、行動食は片手で食べられるものを。個人薬品とテーピング、シュリンゲや細引きの応急セットも小さくまとめます。パックは20〜26L程度で、内部にロープバッグを兼ねたスタッフサックを入れるとロープの出し入れが速くなります。スマホは省電力モードと予備バッテリー、紙地形図をセットにして運用します。

カテゴリ 推奨の要点 目安数量
ロープ 60mシングルまたはダブル 1
ビレイ器 ガイドモード対応 1
クイックドロー 延長用含め長短混在 10〜16
アンカー コーデレット+120cmスリング 各1
安全環 ロッキングカラビナ 3〜5
下降 オートブロック用細引き 1〜2

補足 ロープ種別の選択は下降計画と一体で決めます。長い懸垂が想定されるならダブル、徒歩下降主体ならシングルで軽さ優先が快適です。

支点構築とビレイ運用を安全に回す

現場で最も事故につながりやすいのが「支点未完成のまま次操作へ移る」「合図の錯覚」「ロープの取り回し不良」です。この章では、セルフ確保→アンカー→確保開始の順序をルーチン化し、ガイドモードの運用、ロープ整列とスタック対策まで、切替の質を底上げする具体手順を共有します。SERENEの考え方を骨格に据え、荷重方向の予測と冗長性の取り方を場面ごとに落とし込みます。

セルフ確保とクリップ順の原則

ビレイ点に到着したら、最初にセルフ確保を短く強固に取り、落石に対して身体を低く保てる位置を選びます。支点はSERENE(Strong・Equalized・Redundant・Efficient・No Extension)を指針に構築し、可能なら二本以上の独立したポイントを等化します。クリップ順は、セルフ→アンカー完成→ロープ受け渡し→確保体勢、の順で固定化するとミスが減ります。セルフは長さ固定型だと移動が鈍るので、場面に応じて可変式も使えるようにしておくと快適です。

ガイドモードとセカンド確保

ガイドモード対応のビレイ器は、上方向荷重で自動保持できるため、セカンドがフォールしても制動が効きやすく、引き上げ補助にも転用できます。解除手順は器具により異なるため、解除用の細引きやカラビナの掛け方を複数パターンで練習しておきます。リード再開時は、器具の向きとロープの掛け間違いが無いかを相互確認し、「ビレイ準備良し」の合図を統一します。ロックカラビナはゲートの向きとクロスロード防止を意識し、静荷重でも破断しない配置を選びます。

ロープマネジメントとスタック対策

ロープはピッチごとに役割の人が整列し、ノットの位置を常に可視化します。風の強い日はロープバッグやスリングでまとめ、エッジからの落下を防ぎましょう。スタック回避には、投げるのではなく段重ねのコイルで足元に置き、懸垂ではロープ末端を結び、投下方向に障害物が無いか確認してから投入します。ドラッグが強いピッチでは、延長スリングでクリップし、カーブでの摩擦を減らします。

注意 アンカー完成前の器具操作や、セルフ確保より先の作業は落高リスクを高めます。手順を声に出し、相互確認を習慣化しましょう。

  1. セルフ確保を短く取る
  2. アンカーをSERENEで構築
  3. ロープを確保器にセット
  4. 合図を交わして確保開始
  5. 回収後にロープ整列と次の準備

ルート取りと撤退プランニング

良い計画は「順調に進むため」だけでなく、「止まる勇気を早く持つため」にあります。トポの読み解きと地形の理解、懸垂下降の段取り、天候悪化時のエスケープラインをセットにして、ゴールではなく折り返しを起点に逆算します。この章では、迷いやすい分岐の見分け方、下降の安全装置、撤退基準の作り方を実践的にまとめます。

トポと地形の読み解き

トポは線だけでなく、岩層の走向やテラスの位置、日当たりや風向まで情報が隠れています。アプローチの分岐や下降路を先に歩いておくと、終了点で迷いません。難所は昼過ぎではなく午前中に通過できる計画にし、渋滞が予想される人気ルートでは代替案も準備します。等高線の詰まり方や岩稜の肩、灌木帯の広さなど、紙地図の記号から撤退ラインの候補を複数持っておくと判断が速くなります。

懸垂下降の手順とバックアップ

下降は登り以上に事故要因が多い工程です。結び替えは左右のロープカラーを確認して投下方向を決め、末端は必ず止め結び。器具下にオートブロックを作り、手を離しても停止できる体制にします。途中のテラスでは、先にセルフを取り、ロープ回収の摩擦を減らす角度で立ち位置を調整します。回収前に落石を予告し、他パーティーがいれば声をかけます。風が強い日はロープを輪にして段重ねで下ろすと、絡みと飛散を抑えられます。

天候悪化時のエスケープ

午後の対流雲や風向の変化、日陰化による体感温度の低下など、撤退シグナルは小さく早く現れます。各ピッチで戻れるテラスや懸垂用の木・残置を確認し、引き返す基準時刻を設けておきます。電波の弱いエリアではオフライン地図と紙の地形図を併用し、最短の歩き下降や巻き道を把握しておきましょう。撤退後のエグジットに給水や日没対策が必要な場合は、ヘッドランプの電池残量と保温着の余力で行動限界を決めます。

Q&A よくある疑問:
Q. 下降と歩きのどちらを選ぶべき? A. 風と落石が強い日は歩き、日没が迫るなら懸垂の方が早い場面も。地形と時間で柔軟に選びます。

パートナーコミュニケーションと効率化

良いパートナーシップは、技術力の差を補い、ミスを未然に防ぎます。ここでは合図の標準化、役割分担と交代リードの運用、トラブル時の意思決定プロトコルをまとめ、行動時間を短縮しながら安全余裕を確保する方法を解説します。短い言葉とシンプルな手順が、強風や遠距離でも機能する鍵です。

合図と掛け声の標準化

声が届きにくい壁では、掛け声を短く明瞭に統一し、聞き間違いが命取りになる語彙は避けます。例として「ビレイ解除」「ロープください」「固定しました」「登ってください」「解除します」を定型にし、聞こえない時は推測で動かないをルール化。ロープ合図は引き数や強弱を事前に決め、間違いを防ぎます。手袋やフードで声量が落ちる冬季は、ホイッスルの短音・長音で代替するのも有効です。

役割分担と交代リード

交代リード(スイング)は疲労分散と集中維持に有効です。各ピッチでの持ち物の受け渡しを最小化するため、共通装備はリード側が持ち回るなど運用ルールを決めます。ボルトの少ないピッチは得意な人が担当し、時間短縮を狙います。ペースメーカー役が時計を見て、ピッチごとの遅延を早期に修正するのも大切です。交代時に「次のクリティカル3点(難所・支点候補・下降目印)」を共有すると、迷いが激減します。

トラブル時の意思決定

スタック、負傷、天候急変などの事象が起きたら、最優先は安全な停止です。次に位置と時間を確認し、選択肢(続行・下降・横断)を洗い出し、パーティー全員の合意で決定します。情報が不足するほど保守的に傾け、プランBのための装備(細引き、追加スリング、予備ライト)を常に確保しておきます。記録用に簡易ログを取り、次回の改善点へつなげましょう。

  • 聞こえない時は動かない
  • 決定前に時間と位置を確認
  • 役割交代は支点完成後に行う

速く登るより、迷わず止まれる準備がある方が安全で、結果として行動全体が速くなります。

初心者が失敗しやすい点と練習方法

初挑戦でつまずきやすいのは、セルフが長すぎる、等化の不足、ロープのねじれ、合図の曖昧さ、時間見積りの甘さです。ここでは失敗パターンを具体化し、段階練習で克服するロードマップを提示します。入門エリアの選び方とマナーも併せて整理し、次の一歩が具体化する状態まで落とし込みます。

よくあるミスと対処

  • セルフの長さが長すぎて落下半径が広がる→短く固定し、常に体を支点より低く
  • アンカーの等化不十分→コーデレットの長さを調整し、荷重方向を想定
  • ロープのねじれと結び目→整列役を固定し、段重ねコイルを徹底
  • 合図の曖昧さ→定型語とロープ合図を事前に練習
  • 時間見積もりの過小→1ピッチの標準所要にバッファを上乗せ

段階練習とスキル習得

  1. ジムでガイドモードの確保解除と引き上げを反復
  2. 外岩シングルでアンカー構築とマルチの切替を模擬
  3. 懸垂下降を複数回連続で行い、回収と結び替えを練習
  4. 短い実ルートで2〜3ピッチの通し練習を行う

入門エリアの選び方とマナー

まずは終了点と下降が明確で、待避テラスの広いエリアを選びます。人気ルートでは先行パーティーのペースを尊重し、追い抜きはビレイ点で会話して安全に。落石しやすい小石はその場で除去し、掛け声で周囲に知らせます。地域の清掃や利用ルールにも目を通し、次に来る人が快適に使えるよう配慮しましょう。

ミニ統計の目安:1ピッチ平均30〜40m/全体所要6〜9時間/必要水量2〜3L。季節と技量で増減します。

まとめ

マルチピッチクライミングは、技術の寄せ集めではなく一連の流れを滞りなく繋げる運用芸です。装備は軽く整理し、アンカーはSERENEで簡潔に、ロープは見えるように整える。合図は短く統一し、迷ったら停止して相談する。撤退は計画の一部として出発前に決めておき、懸垂下降のバックアップと末端結びを習慣化します。

小さな規律の積み重ねが大きな安心に変わり、結果として行動全体のスピードも上がります。まずは短い壁で流れを体に刻み、季節と天候の良い日を選んで段階的に距離を伸ばしていきましょう。準備が整ったチームは、景色と動きと会話を同時に楽しめる余白が生まれます。その余白こそが、山で過ごす時間の価値を高めてくれます。